暫定ブロードキャスティング

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てふてふ

ただいまtouchにて外から更新テストちう

江戸人吹いた

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ひとりついった | コメント:0 | トラックバック:0 |

●ゴッホ展(九州国立博物館)

IS一話の「北九州から!」は和田カヨさんの声だよね。私の嫁の中の人の声だから一発でわかったぜ!
二話で久しぶりに長セリフを聞けてほんとに良かった。
いやしかしISは二話で一気に伸びましたね。今後の業界内でアクション方面をMFで固められるか?
今期は血溜まりとISが双璧です。

さて、今回ゴッホ展を見た限りでは、この人はおそらく2.5次元の絵を書きたかったのではないかというのが正直な印象です。現代の用語を使って言うとBook処理という技術を絵画の中で模索したのが一つ、そして書き方というか筆の扱いだけで言えば筆一本の一閃をとことんまで追求しようとして水墨画のような筆運びを目指したのが一点(ただし、モノクロではなくカラーでやりやがったのはこの人くらいなのかもしれません)、そして最後の一つが徹底したリアル描写からデフォルメという方向を開拓しようとした。これらの三つの柱が最期の作品である「アイリス」に収斂したというような展示全体の演出になっていたのかなぁ。

鑑賞時間はだいたい50分くらいだった。私の場合は解説とかを全く見ずに作品だけを見るというような見方をしたので普通の人よりは時間は短かったように思います。
そして、今回の常設展の援護は、たぶん建築物の雛形の奴なんだろうなぁとか思います。

さてと個別に検討していこうと思うときりがないのですが、ぐだぐだ書いてみようかなぁとかなんとか。
手元に目録がないのが痛いなぁ、音声ガイドの添付物に展示順に絵が並んだ冊子が付いてたみたいだけどアレだけでも買っとけばよかった。

今回はどういうふうに鑑賞したのかを振り返ってみると、最初の一面にあった湖面の絵でヨットのマストの部分の書き方がまずヒントになりました。これは背景を横にひっかき傷をつけた上でほぼ垂直にマストの線を引いていたというのでまずピンときて、そのまま横に見ていくと岩の絵で全部横に筆を走らせた中でただ一面だけを縦に力強く筆を一撃しているとこををみた段階でほぼ確信。この段階で以降の作品の見方の方針を固めてみていくことになりました。

このような技巧的な部分を中心に絵を見てみたのですが、作品のテーマにもこれらの技巧を活かそうとした跡が見られています。しかし、人物画に限ってみればあまり上手くはないんだろうなぁという印象を受けました。ミレーのような神クラスのものや銅版画でのリアル志向の神クラスのお手本とその模写があるのですが、スケッチ自体はたいしたことがないというか私にはわからないだけなんでしょうけれど、立体の把握→絵画化→デフォルメ→漫画用のキャラデザ→アニメ用のキャラデザ→固有世界の崩壊と再生→クオリア把握→意味不明→教科書にのる→天才バカボンのような漫画でヘタウマの代表扱いされる、まで行っているピカソのようなクラスには到底及ばないような感じというよりも、後々書くつもりなんですが、此処で書いてみると筆一本の一閃で牡丹の花弁一枚を表現する水墨画のようなものを油絵で追求したようなところがあるので、この技法が丸みや曲面が複雑に重なり合う生物とは根本的に背反属性てきに合わな買っただけの話で、人体模型の絵では、筋肉のつながり一つをひとかたまりで表現してはいたものの顔個別というものまでは行きづらかったのかもしれません。
チケットの絵にもなっている自画像くらいまで近い人物画ならまあなんとか、球面の面を捉えて行けるのですが、人物画ではそれ以上の伸びに結び付けられなかったか。少なくともゴッホの限界というよりはゴッホの技法が静物画に特化し過ぎたために色で補う必要があった、故に点描画の技法に近いが、初歩的なデジタル描画の程度に過ぎなかった印象派の描写と特有の色とで印象派の正常進化系のようにも見えなくはないけれども、現代風な喩えをするとパチンコ屋の上にある画面のように解像度自体は普通のXGA程度?のものであってもあくまでも点の集まりと色とで遠目の印象を表現していたのに対して、ゴッホの意図したところは要するにポリゴン絵のようなものです。ゴッホの自画像自体は言ってしまえばハイポリゴンなのですが、これはこれとしてひとつの系統として完成した、だが一方でらぶデスや3Dカスタム少女の方面に突き進んでいったのが静物画の方面だったのでしょう。ハイポリゴンのままならば普通の名画家だったんでしょうけれども、こっちまでやられたらゴーギャンも狂うわなぁ。

ところで、このポリゴン的な書き方あるいはアニメ作成過程でのBook処理というものがなんなのか。
適当に体験版でも落としてきて動かしてみればわかりますが、ポリゴンあるいは3D全般というものがリアルを再現するものとして扱われ、それに加える形で最近の3D系統の技術がもてはやされていますが、果たしてほぼ人間に近いハイポリゴンをつくることができたとしてそれに萌えられますか?という問題が生じてきます。
3Dというものは空間内を直線でつないで四角形を造りその中に面を作って要するに板を作るのが基本です。
これらの面をとても細かく何千個も集めて例えばちょうちんのような球面を作ったりするのですが、これらをなめらかにするアンチエイリアスなどの話があってもこれが基本です。
例えばゴッホの自画像は一筆一筆がそのポリゴンのような役割を果たしています。ただし、例えばこれをモノクロにしてしまうとよくわかるのですが線だけを見ても成り立つわけですよこれ。むしろモノクロの方が燃えるねこれは。
ポリゴンそのものというとちょっと違うのですが、対象を構成する筆運びの一閃一閃が非常に強いのさ。ただしこれは線画ではないというのがなんとも。
モノクロにしても成り立つ。というとこれは優れているんだ!といっているような感覚に陥るかもしれませんがむしろこれはモノクロで成り立つことのほうが個人的には悪いような印象を受けます。要するにこれならば印刷物やぶっちゃけノートpc程度の質しか無い再現力でも鑑賞できるレベルのものしか持っていないわけですから。現代の万能価値至上主義者から見れば真の価値は劣化物にも力が現れる!とか言い出しそうですがオーディオを突き詰めたとしても生演奏には及ばないように、保存と再生の技術というものはあくまでも拾えるレベルのものでしか語られる物ではありません。
この人物画で語るべきはそのような筆一つ一つの力強さなのでしょう。色は別として。
印象派とかのとの決定的な違いは従来品はおそらくものすごい写真家の作品やルネッサンス期の神クラスのものとぶつけてみるとお話にならないような基礎力しかなかったのをなんとか打破しようとしたところにあるように見受けられます。変な言い方ですけど、宮廷画家とかのエリートに大量の金積んで書かせたような名画のようなものと生活にも苦しむような人間が赤貧で不安定な生活の中で描かれた物と、かけられたリソースが圧倒的に違うものを同じ土俵で戦わせること自体がおかしいのですが、そういう状況でなお状況ひっくりかえすような変態性を見せたのが面白さの一つなんでしょうなぁ。ろくな努力をしたことがない人間ほど人間は平等だ!とか才能に貴賎なしとかほざきやがりますが一定のレベルにいたるまでに必要なリソースというものは天才だろうが変態だろうが一般人だろうが対して関係ありません。天才だから絵の具が安くなることはありませんし、絵一枚を書く時に時間が伸びるわけではありません。このへんはこれからの正義の話しをしようとかシアターの2を読めばいいのですが、芸術家の作品というよりも商業作家の作品に親和性があるのかもしれませんね。だからこそ、日本の絵に興味を持ったのでしょう。江戸時代というのは世界的にも稀な平和で商業が発達した異色の文化でそこには天才画家だけではなく、多くの商業作家がいた。そして、そこで商品としての絵が生まれていた。それはミュシャのような正統な絵を商業化したものではなく、デフォルメが効いていてなおかつ印象に残る独自の作品群だったんだろうなぁとか思います。

浮世絵ってさ、線とベタ塗り、要するに今で言うところのアニメの書き方と同じなんですよ。
版木を重ねて書くのだから当たり前のように思いますが、現代のアニメで登場人物のセルの上にかぶせて前にあるように見せる技法のことをBook処理というのですが、こういう処理をするとキャラが立つんですよ。
冒頭に挙げたヨットの書き方のようなところにも共通するのですが、筆で絵を書いた時などには絶対にできないような一つの平面が一気にぶった切れてその上に人物の着物がのってたりというしているために中心にあるものが浮き出て見えるのです。
途中に浮世絵のスペースがあったあのですが、ここに来てあ~やっぱりねという感じでした。最期のアイリスは線一本一本で葉っぱの一枚が描かれそれらが複雑に空間的に絡み合うわけですが、その重なりあいの技、そのものとになっているのがおそらくはこの江戸時代の商業文化がカラー冊子大量生産のためにあみ出した秘技・Book処理だったのでしょう。


さて、最期のアイリスで見せたその一本一本の線の強さというのは結局どこから現れたのか。
先ほどポリゴン的に平面を合わせて面を書いているというように書きましたが、このような書き方をしている人は実際には他にもいたようです。
例えば今回の展示ではゴッホ以外の人の作品も合わせて展示されているのですが、そのなかにツボの絵を書いているものがありました。それを見ると一目瞭然なのですが、ツボのクビレの部分を境界として筆の流し方が違っているのがわかります。この人の場合はツボの上部で一つの平面としてとても綺麗にまとまっているのですが。最期のアイリスをはじめとしてそれ以外のゴッホの作品では線一本で草一本という感じで書かれているものが多くあります。しかし、最期のアイリスのような強さとこのツボの絵との平面的な書き方とは全くの別物になっています。

どのように違うのかというと、ツボの絵があくまでも大きな平面のベタ塗りに近い書き方だったのに対して、ゴッホの書き方はあくまでもおそらくは筆が許す限りでの一本線でしか書いていないというのがあります。しかもそれを顔を近づけてみてみるとろくに色もつくっていない原色で、グラデーションもろくになっていない、いい加減な線のようにも思えるわけです。しかし、だからこそそれらは不確定な筆の絵の具のぐにゃぐにゃが作った強い線になっているわけです。
これは推測になりますが、おそらくは水墨画の影響なのではないかと思うのですが、証拠らしい展示物はありませんでした。
水墨画の書き方というのが先にも書いたように一つの線を炭のある程度の不確定な濃淡をある程度予測して線一本で一つの花弁を再現したり、あるいは長谷川等伯の松林図のようにしゅっと流しただけの線で草を表現したりします。おそらく書き方だけで言えばこれが一番近い。
ただゴッホと水墨画が大きく異なる点は、水墨画が基本モノクロであるのに対しゴッホはカラーで線を書いたというところなのでしょう。私は詳しいことまでは知らんのですが、水彩画では絵の具の粘土が足りず墨ほどの濃淡の美しさというのは出すのは当時としては難しかったかもしれませんし、日本画の顔料もどっちかというとベタ塗り向けのような感じがするし。とにかく水彩とかできれいなグラデーションではない色のうねりを画面の限定的な一本の葉の上で創り上げられるのはゴッホと油彩だけだったのかもしれません。
今手元で自画像を白黒にしたのと等伯の猿の画集と見比べたら全体的な濃淡は似てるんですよねぇ。ただし、色は全くの別物でありますが。

そして最後に色の話、なのですがこのへんは私にはよくわかりません。広重ブルーがどうのこうのとか聞いたような聞かなかったようなきがしますが実際どうなのかはわかりません。ただ、古典作品のように暗い色ではなく、他の作品のように軽い色ではない。もし仮に暗い色や軽い色であったならば、おそらくはこれまで強い線を描くことはなかったように思います。色は強いけれど、全体的に弱々しさは感じませんしむしろこの書き方で変に色を混ぜたりしたらろくなことにはならんかったように思います。
これは液晶ディスプレイでの話になるのですが良いディスプレイというのは何かと言うと、例えば赤の色をレベル100から一まで100個再現できるとか言うようなものでたとえレベル一と100とを再現できても中間は10刻みのようなものは悪いディスプレイです。そして、もっと悪いディスプレイはレベル30から70くらいまでの色しか再現できず、最悪なものは一つの点ととなりの点の色が混ざってボケボケになってしまうわけです。
こういうモノで写真や絵を見ても感動などはしないでしょうし、絵の本当の良さというのはわからんでしょう。
試しにパソコンの中に眠っているお気に入りの絵があるならばちょっと高めの光沢紙に印刷してみましょう。私は画彩というのを使ってるのですが、最近のプリンタならば余程の粗悪品でない限りいい色でA4いっぱいに印刷してくれたりします。これをA3とかA2とかで印刷してみると結構世界が変わります。

と話がそれ書けましたが、個人的には色云々というのは塗ってみれば簡単に判断がつくでしょうから、手元の皿にでもぺけ書いてみればそれだけで色合いの確認なんてのはできてしまうでしょうしね。けれど一番の問題だったのはアイリスの葉っぱ・緑と緑とをどのように交錯させるかだったのでしょう。
と、ここまで書いてきてそんなにアイリスのはっぱの重なりとかないんですね。記憶って曖昧だなぁ。それに加えて自分は葉っぱしか見てなかったというのに愕然としますね。
絵ってのはそんなにあくせくと見るもんじゃないんだろうなぁ。アイリスというかユリ科の植物のような葉脈をがすっと伸びて他と混ざろうとしないものを選んだのは線を描くというきっかけになっていたんじゃないかなぁとか、最期の作品ではあったが到達点ではなかったという感じで閉めようかと思ったが私は一面しか見てませんね。この他系統的には全く別の静止画の中の動く人という系統もあったのでしょうが果樹園のところで完成したというかもういいやみたいになっててちょっとくすくすしたのはないしょの話。

とか言うのはさておき全体的には2・5次元、ただし萌絵風でという感じのものを探ろうとしたんだろうなぁという感じがしました。少なくとも狂気は感じませんでした。
ただまぁこう言うケタ違いのものを見ている変態というのは誰からも理解はされんでしょうし、理解はできても嫉妬やなんやらで敵を作るだけだろうしね。少なくとも画家で友達やれた人というのは余程の人格者か無能でしょうなぁ、弟が画商であったというのは救いだったのかもしれません。同じ土俵に立たなくて済むけれど、絵を全く理解しない人ではなかったのでしょうから。
自画像書いた段階ですでに一つの完成はしたけれど、それ以上のものを求めだすと、絵にしか無いものは何かという物を掴みきれなかったんだろうなぁと思います。
たとえばゴッホの自画像を白黒にしてみてください、それを印刷して遠くにおいてみてくださいなんか新聞に乗ってる写真みたいじゃないですか?逆にたどってみると新聞の写真に派手な色付けたのがゴッホの自画像とも言えるかもしれません。銅版画とかの心得もあったのでしょうからこのへんは自覚してはいたのでしょうけれどどうなんだろうね。
絵が単なる模写でいいのであればそれは写真で事足りてしまうわけです。
ですが、絵と写真の大きな違いはなにか、写真と多色刷りの浮世絵なんかを見てればすぐにでもカラー写真あるいはタペストリーみたいなものは出来てしまうんじゃないかというところから、色を求め、その色を使って描くべき線を知らずのうちにか手にいれていたか。
今回集められていたのは風景や静物に強いものばかりで星月夜のような流れを表現したものは谷の絵くらいか?カフェテラスのように三面構成+それを見ている視点とかいう感じの空間向けのもなかった気がするので、今回の展示はおそらく自画像がメインだけど「最期の」アイリスのお披露目というのが主目的だったんだろうなぁ。

2・5次元、ただし萌絵風というのは決してリアルCGではない、それなら実写で足りるから、しかし平面にとどまっているわけにはいかないんだ、という感じで出てきたのがラブです系統のゲームだったんだろうなぁと思うところがあったからです(これはポリゴンをアニメ調にするトゥーンレンダリングとか言う技術だったと思う)。写真には真似できないしかし、平面上での戦いであるならば?という感じで見るとよくわかるか?絵の具を盛るのはちょっとチート臭いですけどね。
とにかく写真では見ることの出来ないタッチが絵の具の盛り具合などから強烈に伝わってくるので現物は見なくちゃいけないなぁと思います。
特に冒頭の引っかき傷なんかは画面上ではわからんでしょうし絵の具を荒く乗せているからこその陰影が出てきたり、小さな画面の一部の中での優先順位などが明確になっているのです。こう言う微細なニュアンスというのは現物がなければそうそうわかるもんではないでしょうなぁ。

今回太宰府まででるのに電車をつかったのですが思いの外時間がかかった。あっち方面に行くのは車かなんかで山突っ切ったほうが速いので今回は初めての経験だったんですが、体力的に結構きつくなったなぁ。
読書感想文 2010年6月25日~ | コメント:0 | トラックバック:0 |

てふてふ 今回も外から更新テスト
しかしスマートフォン用のページよりも一般ページのほうが更新しやすいというのはどうなんだろうね
あとこの携帯準拠の変換予測が使いにくい 結構軽快にタイプは出来るものの変な変換になったときにはいったん全部けして一文一文書き直す必要があったりするのでこの辺はまだ発展途上なんかなぁとかおもう

余裕?そんなものありませんよ
大人の余裕?時間的余裕?
わたしん辞書に余裕という文字はないとかそういうはなしをわすれずにかいておこうとかいう感覚で更新を試みたもののあまり感覚的にはいいものではないね
モバイル環境でここまでできるというのはすごいことなんだろうけれどもどちらかというとスタイル的にはtouchのハード能力でゴリ押ししているだけのようなかんじがするのにちょっと変な携帯的文化が入っているせいでパソコン環境イコールではないというのがなんともわたしの視点からはあまり割り切れない印象がある
とかいうけどGoogle変換まえのものよりはいいんだろうなぁとかはちょっと思う

まあいいやそれなりに使えはするということはよくわかったけどけっk

意外と十字キーってのはだいじなもののようです

ひとりついった | コメント:0 | トラックバック:0 |

★★★なれる!SE3 失敗しない?提案活動 (ライトノベル 電撃文庫 推薦図書)




「私の経験と技術をあんたに預ける。使いこなしてみなさい、桜坂」



―――はい、ボス。




心中で小さくつぶやき、桜坂工兵は室見立華の手を取った。













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読書感想文 2010年6月25日~ | コメント:0 | トラックバック:0 |

★★★★★織田信奈の野望 5(ライトノベル GA文庫 姉川の戦いから三方ヶ原まで)



この、幼女以外には常に高慢であったそれがしが、
知らぬうちにお館さまの前に歩み出てひれ伏していた。

「覗きか、痴れ者め」と手打ちにされることは覚悟の上だった。





隻眼を潤ませながら「天下一の軍師、山本勘助めにござりまする」とそれがしは名乗った。

















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歴史小説 | コメント:0 | トラックバック:0 |

★むやみに分裂!!邪神大沼 もし世界一わかりやすいマネージャーがさおだけ屋のノートを読んだら!! (ライトノベル ガガガ文庫)

二番煎じは愚か十八番煎じにも出遅れたか
しかし堅調に面白い。





・・・ぶっちゃけ面白かったとしか書けないのが困ったところ。

前巻が結構な大作だった分物足りなさを感じたけど堅調、堅調。最後に感動を狙いに行くとはなんと狡猾な、危うく感動するところだったがしかしそこは邪神コメディでありました。
初級邪神から格下げされダメ邪神となってしまった大沼が、文化祭で分裂したりメイド喫茶を狙ったり何たりのお話。もちろん邪神様女の子verも登場、しかも今回はさなえという名前を与えられて新キャラ扱い。よっぽど人気があったんだろうなぁ。

時事ネタを豊富に使うことで生じる今でしか楽しめない笑いの数々、あったあった、あれどうなったとか昨今の出来事を整理するにも使える・・・のか?

読書感想文 2010年6月25日~ | コメント:0 | トラックバック:0 |

赤×ほむほむ

青×ほむほむ

黄×ほむほむ

ひとりついった | コメント:0 | トラックバック:0 |

ふらふらなんてしてね~です

まっすぐあるいてたらあるみさっしのほうからぶつかってきやがったです



さやかはマミさんの影を追ってるだけでマミさんの言ってることほとんど受け取れてないんだねぇ、それを見ていられない杏子もまた幼いというか弱いところを付かれてさやかに引きずられていってと、あのクラスになるとやっぱりすごいな。
マミさんの書き方とか杏子の書き方とか見てるとやっぱり年というか人生経験というのは圧倒的な実力となって顕現するんだなぁ。マミさんが先輩やお姉さん、と表現すべきものであるのに対して杏子はお姉ちゃんとでもいうべきものでこれらの言葉の指し示すものは似て非なるもの。さりとてどちらが上とかしたとかという話ではなく、そのどちらにも長所や弱点というものがある、これはまた長所であるがゆえの弱点という切っても切れない関係にあるものだが、それはお姉さんやお姉ちゃんという観念の長所と短所を指し示しているだけに過ぎない。
まあ簡単に言ってしまえばキャラ付けが上手いというものだが、キャラ物としての上手さというだけではなくストーリーとしての上手さにも片足突っ込んでいるようなもんか。

という話はさておき、マミさんもいいけど杏子もいいなぁ…包容力というか私の周りには全然いないタイプだ。さやかはたくさんいるけど…


いつもはシャワーで済ませてて久しぶりに湯船に浸かったら腐臭がしたのでこれは何かオカシイと思い、風呂釜を掃除してみると湯垢が出るわ出るわ。これ一ヶ月掃除してないってレベルじゃねーぞ!
ひとりついった | コメント:0 | トラックバック:0 |
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