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とある真夏の高橋さん/筑前戦国史



手元にあるのは1997年の版。
リンクの本がその後どのくらい改訂されたものか知らないがそれほど違った内容になっていることないように願う。

今回は知っている人は知っている高橋紹運のお話。

今回の題材になる部分だけをさらっと読み返してみるとこれを手に入れた当初ではまったく理解役なかった部分も何とか理解できるようになっていた。

本日は日本戦史上唯一、戦略的判断が招いた763人の玉砕について簡単に触れてみようと思う。
先に毒を吐いておくとこれ以外の日本特有の玉砕事件に関して、私は価値があるように思えない。
ふざけた侍魂とやらで自分の死に意味を付加せざるを得なかった本人たちはいざ知らず、それを美談に仕立て上げようとする死人以外の神経が気に入らない。局地での戦闘行為は人を殺して終わるものではない。生者の論功行賞を始めとして敵味方の戦死者の供養、事後の統治機構の構築、その後統治者となるものは次なる敵に備えて防衛線を構築しなければならない。
何より現在のように兵士職業にあるもの以外を徴兵して戦場に送り出す場合にはそれはそのまま経済上の生産能力を戦力に変換していることになる。当時の五万の兵力の内三千人の戦死と千五百人の負傷はそれだけの働き手がこの九州から消えたことを意味する。当時の島津家当主、島津義久が抱えたのは戦力の消滅だけではなかったと言うことだけは覚えていたほうがいいのかもしれない。



この本には福岡県の一部旧国名で言うところの筑前の戦国時代の大きな事件を追ったものですが、そこに書かれているのは戦争の人殺し以外の処理を含めた武将たちのやり取りです。侍とか言う一人で何人殺したとか言うふざけた連中の話ではないのであしからず。


さて本題です。



とある真夏の七月九日。九州の博多の南方、現在の国道三号線を抑えるようにして配置されていた立花山城の立花宗茂、岩屋城の高橋紹運らは中央の豊臣勢に対して救援を要請する。

九州南端の薩摩大隈(鹿児島県)と日向(宮崎県)南部を領する島津家の軍勢が北上し勝尾城(鳥栖市郊外)の筑紫広門を下したのが七月十日のことである。本拠を発した当時は二万程度であったと推測される島津軍はその道中各所の小勢力を従えこの時点では五万もの大軍に膨れ上がっていた。

この当時、島津家に対抗しうる勢力は九州には存在していない。
九州を実質的に三分していた豊後(大分県)の大友家は宮崎に向けた主力を耳川の戦いで島津家によって討ち取られ、さらに龍造寺と争い、毛利の九州侵入を許さなかった立花道雪(道雪は出家した人の名乗る号。通常は武将としての正式な名である鑑連と書くべきだが本人が書類に道雪と書いてるんでここでは一般的な呼び名である道雪と書く。)は既に病没していた。これに加え肥前(佐賀と長崎だが実質的には佐賀平野)を本拠にしていた龍造寺家も当主隆信が沖田畷手の戦いおいて島津軍によって討ち取られて後は急速に勢力を衰えさせ、結果龍造寺家は島津家に従属する事となる。

その後島津家は諸勢力を下し、九州に残された事実上の空白地域、筑前、豊前(現在の福岡県の大部分)そして既に虫の息となっていた大友家の本国豊後へ駒を進める。

一方、豊後の大友家前当主宗麟はその年の三月、中央の豊臣家の家人となることによって豊臣の軍門に下り島津討伐を秀吉に促していた。

両者の衝突は時間の問題であった。

ここで少々の私見をはさめば当時、九州以外のほとんどが豊臣の勢力下にあった状況下では九州を制圧した後、関門海峡を固めてしまえば大軍による九州上陸作戦はこの上なく困難になる。
その後の外征で水軍の弱さを露呈した島津氏であるが当時の水軍の中でも特に優れた長崎付近の水軍関係の勢力や宗像系統の水軍をあわせると簡単には手が出せない勢力となったと思われる。(当時の造船技術などから大量の人員を一度に海を越えて輸送することはかなりの困難を要した。そうでなくとも敵が輸送船から出てこないうちに水際でたたくのは戦術レベルでの基本と言われる。)
豊臣勢力が到着する前に九州を勢力下に納めされるかどうかに島津家がこだわったのはこういう事情があったのかと思われる。
ちなみにこの時島津家の軍勢は熊本から福岡に入りそのまま国道三号線を北上するルートを取る部隊と宮崎から北上し大分に入った部隊とがある。




時代背景はこのくらいにして高橋紹運の目の前には島津軍そのほかを含めた5万(このように書かれることが多いが実際にはこの後岩屋城での交戦中に宮崎勢が到着するのでこの時点では三万数千くらい?もっと少なかったかもしれないが)もの軍が充満しそこそこの勢力を誇っていた過去の名族である筑紫広門を交戦の末に下していた。この筑紫広門勢は千人にも満たない兵力(詳細は不明だが二つの拠点のうち筑紫晴門についていたのは300程度)で三日間交戦を行う。嫡子筑紫晴門が龍造寺隆信を討ち取った川上忠堅と当時としては珍しい一騎打ちを演じ、筑紫晴門は討ち取られるものの川上忠堅はそのとき受けた傷がもとで後送先で死亡するなどの抗いを見せた。が軍事行動に支障をきたすほどの打撃を与えるには至らなかった。

かえって筑紫広門を下すことによって立花勢の不安をあおったのかもしれないが、この猶予が高橋紹運がこの後の展開を読み手を打つための時間となったようである。

島津軍が筑紫と交戦中に秀吉への救援を求めたのが九日の話であり未来の話をしてしまえば救援として豊臣に降っていた毛利軍の先方と黒田軍(確か合計で一万五千。数では劣るものの規模としては無視できるものではない。)が関門海峡をわたるのが翌八月の十六日であることを考えるとそこからおよそ30日の間に島津軍を関門海峡に到着させないことが全体の戦局を左右する課題であった。


ここで疑問をはさむと紹運らからの救援要請は黒田家を通して行われ実際に秀吉が回答するのは8月3日とされている。この間なぜ回答が遅れたのかと言う疑問があるが、おそらくはこの期間を読めたということが紹運が優れていたところなのだろう。当時の島津の脅威と大友と豊臣の間の従属関係を理解したうえで、救援は必ず来ると言う確信とその期待できる日程をある程度見通せていたと言うことは現在のように無線も何もない時代においては卓越した能力であったはずだろう。

個人的に思うこと。もしも勝ち目がなくとにかくなんとなく時間を稼いでいればいいんだろうなという考えしかなければ岩屋城の背後に控える大宰府や博多の町が焼き討ちにあうことなど何のそのでさっさと要害である立花山城に引きこもるしかなかったような気がする。実際にこういうことをやればまず第一に島津方に博多の町の財物や補給経路を与えもっと恐ろしい力を与えることになったであろうし、何より政治的には筑前での大友の立場が失われる危険性があった。もしかしたら立花山城の補給や装備の備蓄がまだ十分ではなかったとも考えられる。せいぜい三千ちょい程度の大友勢の怖さと言うものは純粋に軍事力と言う意味合いではなく、島津の旗色が悪くなった場合に離反する国人勢力をまとめる中心となりえる政治的な立場にあったのかもしれない。



なんにせよ十日にほぼ対筑紫の事後処理を終えたらしい島津軍が高橋紹運以下763人が籠る岩屋城に到着するのはたったの二日後の十二日のことになる。

そしてその総攻撃は二日後の14日。
たったの763人で少なく見積もっても二万はくだらない相手と対峙するという状況をあえて選んだ理由については本書にいろいろと書かれているが宝満山(岩屋城はこの城の支城)にあった統増らの部隊は筑紫との混成部隊であったために内部不破の可能性があり合流せず、立花山城にあった宗茂部隊との合流も拒否している。後者の案については黒田孝高(如水、後の分家を含めた福岡黒田五十二万石の祖となる長政の父。竹中半兵衛亡き後の秀吉のメイン参謀。)からも進められた案だがこれは拒否されている。その真意は不明だが島津撤退の後、本格的な攻撃を受けなかった立花山城の立花宗茂勢は拠点の奪還戦において獅子奮迅の働きを見せることになることからあえて戦力を温存したのかも知れない。
また七百人が相手でも二千人が相手でも五万の相手にとっては大差ない。だが五万人の部隊展開作戦立て交戦事後処理次の戦場へ移動の手間は一点に兵力を集中すると一回だろうがそれをあえて二回とらせるための時間稼ぎのための手だったのかもしれない。
あるいは素通りしようにも複数の統制の取れた敵部隊が存在されることと言うものは戦略的には難しいものであったのかもしれない。(素通りするにも押さえの兵を残すに編成の手間と主力人員を裂かなければならず。)


妄想は膨らむもののとにかく高橋紹運は味方から二回の撤退勧告と敵からの三回にわたる降伏勧告に応ずることもなく交戦を続けることとなる。

持ちこたえたのは二七日までだった。



その後の記述はやや飛んでいるが立花山城を取り囲み総攻撃を期したのが八月も十八日のことである。既に16日の段階において中国勢は九州上陸を果たしており開戦当初の島津軍目標は果たせなかったこととなる。

筑紫攻略から岩屋総攻撃までの時間の間隔から考えるに、これほどまでに島津家に痛手を負わせた高橋紹運の功績というものは計り知れないものがあるようである。しかし、島津軍を相手にして豊後の大友軍は続々と裏切り者が出る中で各所で勝利を収めている。大友宗麟を始め島津の北上に始まる戦役で勝利を収めたのは筑前方面だけでの話ではないのである。

以下妄想。

では、高橋紹運の評価とはいったいどのように成立するのだろうか?

戦功自体では四千五百人を死傷させてたといってもしばらく後の話になるが利光宗魚は三千人死傷させているわけだから傷つけた人数でその価値を量るのは妥当ではない。
全体を俯瞰してみると奇妙なことがわかる。
なぜ義久率いる島津本隊の兵力は一万程度だったのだったのだろうか。加えて奇妙なことに七日に宮崎を発し北上していたはずの上井覚兼はなぜわざわざ峠越えをして福岡県入りをしたのか?
この点が不明確なのだが宮崎南部は一応のところ自分の領地でありそこから出発する人員と言うのは少なくとも小兵力ではないように思える。加えて宮崎あたりから福岡南部の平野に向けて峠越えをするのは今の時代でも個人的にいやな道でもある。実際にどのルートを使ったのかは知らないがそこを一万か数千の人間を率いて進もうというのであるからよほどのことがあったものと推定できる。

このように考えると高橋紹運は相手の兵力を自分の前に集結させたと言うことがまず評価されるべきもののように思う。
この後島津本隊は豊後を掌握しきれずに十二月にまで戦線は豊後で膠着する。(多分)この宮崎勢がもともと豊後攻略要の補充人員であったならば豊後攻略を失敗させたのは紹運の功績と見て取れるのである。

よく言われる少数兵力を以って大軍を翻弄撃破することが兵法だとか言うつもりはない。野戦で大軍を潰走させることが戦術的には理想だったのかもしれないがあえてそういう奇策に走らず堂々と立ちふさがることで現実的で確実な戦略的役割をになうことが出来たのが結果として評価することが出来ることにつながったのであろう。


結果論だけであれこれ言ってみましたがやつは何人殺したとか言う話だけでは戦争は語れないとかそういうことを言いたかったわけです。武勇と蛮勇は違います。よく大切な人が一分一秒でも長く生きられるためにとかいって突貫するやつがいますがこと家族を養うとかそういう立場をわきまえている場合には自分がその人たちが苦しみもがく時間を長引かせてるってことを考えなかったんですかね?戦後悲劇に酔う暇もなく家族を食わせるために奔走した人たちの話を聞くとそう思います。悲劇によってるだけの人だいっ嫌い。少なくともよく言われる蝉噪では相手をほめられるような行いは何一つなかったように思います。最近は変な番組流さなくなりましたね。私がテレビを見なくなったせいかもしれませんが。
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