暫定ブロードキャスティング

近況: 農業高校ラブコメ 「のうりん」(GA文庫 ライトノベル) は8月12日からきっと大絶賛発売中!!! ちょっと何かに似てるかもしれないけど気にするな!意識してるだけだ!!

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金属元素を薬として処方したのはファンタジーものとかでよく耳にするパラケルススと言う人だったと思う。
その人がどういう時代に生きていたのかはよく知らないけれども金属を体の中に入れるとどんなことが起こるかを考えると普通の人ならば嫌悪を抱くのが普通だと思う。

水俣病とかは水銀ですよね。
あとはカドミウムとかですか。

ところが一方で水銀を不死の秘薬として服用していたケースも多々あるものです。

基本的にこういうものはイメージ専攻ですのであまり気にしないほうがいいと思います。
不運にもこのような毒の塊のページに目を通してしまった人、お察しします。

基本的に薬と言うものは人間の体に状態異常を起こすように作られているものであり病を治すと言っても小型化したエージェントを送り込んで病原菌を攻撃しない限り薬が病魔を殺すというものではないのです。

たとえて言うならばごーレムが体内に進入したときに抗体に風属性や攻撃力UPを付与すると言うものが薬の役割なのです。

投薬と言うものはこういうある種の武装をどのように流通させるかと言う戦略なのです。

この投薬方法に特許を与えると言う動きがあるみたいですね。

なんとなくだけど現状では現場の判断で投薬量とかを変えているんじゃないんですか?投薬の仕方にそんなものを指定して果たして現場での行動に支障をきたすと言うことはないんでしょうか。

と思います。

使い方についても製造者が責任を取るのかという話が出てくるはずですがこれは利益の話だけに集約されるのでしょうか。疑問です。
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495万円の軽

昨日は朝早くに家を出てハードオフの近くで食事を取りながら新聞を読んでました。

自分が住んでいるところからはやや遠いところにあるために少々長めのドライブをしたわけなんですけれどもハイブリッド車は意外と普及しているのかもしれません。

インサイトは一台プリウスは二台見ました。

そんなこんなで三菱から軽の純粋ハイブリッドカーが出るみたいです。

その額495万円。

何を考えているのかはわかりません。
車を使う人はたいていの町乗りだからフル充電で160KMしか走らなくていいんだそうですけれどあまりの高額にお客は法人になりそうだそうです。

何考えてるんですかね?

LDは廃れています。
必要以上の高性能はいらないわけですね。
そのうちに普及品のレベルが上がって当時の高性能はただのガラクタと成り果てるわけです。

性能要件さえ満たしていればそのほかはどうなってもいいと言う話はどこで通用するのかわかりませんがプレスコットコアは使いたいとは思いませんでした。


以下はそのときに10分くらいで書いたメモの要約。


よく言われる日本は技術立国であると言う認識は決して間違いではないとは思いますが、それは世界でトップレベルと言うものなのです。
決してonly1というわけではない。

製品と言うものを通してその国の歴史上の技術レベルを量ろうとする場合、日本にも今の某国のようにぱちもんや安い粗製品を作って
先に成長していた国々のマーケットを奪っていた時期があります。
バックトゥーザフューチャー3の冒頭で日本製の部品が使われており、1955年のエメットさんは壊れるはずだ見たいなことをいい1985年のマクフライさんは何言ってんの戸言う反応をするというシーンがあったようななかったような。

つまるところ向こう側の産業は発展の途中であるわけです。


緑の海とかいって面白おかしく某国の海を報道して、まあなんて野蛮な!!と言うわけのわからない反応をしている鎌ととども葉放っておいて、日本にも郊外の時代と言うものはありました。
平和教育などとのたまって残酷映像を見せる変な人たちのSっ気は理解しがたいものはありますがそれ以上に公害の記録というものは精神的ブラクラです。

だって映像なんですもん。

一般的には死体とかのほうが人に対する衝撃は大きく人類のヤミを暴くには最も醜い争うごとを題材にすることが好まれるようですね。
そんなやつらが生活にかかわることにまで首突っ込んでくるようになればこの世も末なのでしょうからそれはそれで隔離という意味ではいいのかも知れません。

先週の美の巨人たちは名作だったような気がします。
醜くあがいて何が悪い。

そういうことを理解できずに高いところからお前らには技術力と言うものがない、といえるのはいったいいつまでなのかはわかりません。




ところで日本いは世界に名だたる巨大企業が存在します。
そういうところにはたいていの場合に大きな資金や人材や伝と言うものがかなりあって世界でも有数のリソースが存在していると言っても過言ではありません。

このようなリソースを持っている企業がまさかタオルやマッチでその経済をまわしているというわけはなく、それ相当の水準や規模の世界で戦っているのが普通なのです。つまるところ巨大企業は物語終盤のレベルと最強装備を兼ね備えた状況であるのです。

何が言いたいのかというと、企業の規模が大きければそれに見合った実力は持っているはずであると言うことなのです。ここで言う実力と言うものは、資材となるようなリソース、技術力と言ったものです。



だからihoneのようなスペックの低い機種をよくもまあ恥ずかしげもなく市場に投入できたものだと言うことなのです。日本にはあの程度のものを短期間に作り上げて市場に投入できる企業はたくさんあるのです。

そういう認識が今の日本にはあるみたいですね。
だからなんだと言われればどうにも答えられないんですけれどもAppleは何の会社でしたっけ?携帯電話会社?
なんか二番目にやられる四天王のような発言ですね。

技術力は問題解決能力の一つだと言ってしまうと話は終わってしまいます。




話はもう終わり。

企業は永続すると言う考えってどこから来てるんですかね?
一般的に言われている日本人の感覚と言うものは栄枯盛衰というもんではなかったですかね?
それに対して今は今の状況がずっと箱庭の中で続いていくように考えているのは・・・文化が変わったんでしょうか?

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あのめーかーはあまり好きではない

以下にメモを残す。

フロンティアの不在。絶対的、或いは相対的当該状況での組織体質の変容の必要性。
対フロンティア能力への拘泥。挑戦者と同じ視点で戦うことの愚かさと、未来のなさ。
つまるところ大人になれない文化。




もひとつ。

MS-06は果たして優秀な機体であったのか。
結果から言えばパラダイムシフトを起こすだけ従来の世界にとっては脅威であったが果たしてその変容後の世界においての位置づけはいったいどの程度であったのか。

要は先にレベルが上がった奴のほうが強いのは当たり前だが全員が同じレベルに到達した場合には何がそれらの優劣を決定するのか。
その能力と評価を見つけることの重要性。
これは問題解決能力とつながるものであるが独立して勘案すべきものである。
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食ショック復活

だいぶ見ませんでしたがなんかおとなしくなって復活。

今回は生産力の話。

262というとピンと来る人がいるかもしれませんが一つの集団の中でエース2一般人6堕ちこぼれもしくは裏切り者2(忍者含まず)という法則が統計学的にあるようです。
ちなみに統計学というものはあくまで統計的に推測を立てる手法であって科学的に因果関係を決定するものではありません。

タバコを吸う人は通常の三倍の確立で肺がんにかかるそうです。
怖いですね。
2%が6%になるわけです。
これ怖いですか?他の94%の喫煙者は肺がんにかかっていないということを考えるとむしろ安全なもののように思えてきます。

これはレトリックとか言う詐欺業なんですがこういうデータというのは大体統計学どまりです。
実際に裁判で責任を押し付けるようにするためにはニコチン吸わせた人がほぼ百パー苦しみもがいて息絶える映像を証拠として提出する必要があります。映像の部分は手法の一つですね。

現在では蓋然性が高ければあくまで民事責任を負わせることはできるようになっているのです。
水銀食わせてふらふらになった猫の映像は必要ではなくなったのです。

裁判官というのはそういう編集マジックに惑わされないよう訓練された人たちなのですが一般人はよく考えずにそういうマジックにかかります。庶民感情なんて理解する必要はないのかもしれませんね。

しかし、実際に事件に真剣に取り組めるのならそういうマジックはリフレクトできるかもしれませんね。





さて、日本の石高ってどれくらいなんだろう?と思うわけです。
江戸時代は3000万石ぐらいですかね?大正時代の成人男の年間米消費量が1.14石でしたので江戸時代の人口は3000万打とかいう話がありますが実際には2500万くらいじゃなかったんでしょうかね?よくわかりませんが米だけ食っていたわけではないし魚を金銭に評価しなおしてそれを米に変換したりしていましたから。

そして当時の生活というものを考えてみると大して流動性のなかった世界で自分の作ったものを自分で消費すればよかったわけでしかも農業以外は大して何もしなくても平和に暮らしていけていたわけですからべつにどうでも良かったのかもしれません。それの流通経路とか販売経路とかは武家のお仕事でしたからね。

生産石高100万石けれど生きていくのに90万石使っているようではたいした意味はありません。産業としてはね。
要は利益率はどうなんさということです。

当時はそういう自家発電自己消費みたいな生活でよかったので棚田のような今では観光地にしか使えないような田んぼがあります。耕して天にいたるとか言うあれです。そういうところで江戸時代以上の生産力つまり産業として成り立つまた言い換えるとそんな僻地で作ったものをどこかに運んで換金できるような仕事として成り立つ田んぼ以外のものも耕作地として計算されているんではなかろうかと私は思うわけです。



現在の耕作放棄地もよくよく考えれば採算が取れないから農業に手を付けていないというのが理由なんではなかろうか。

スローフードとか言う観光商法で年寄りに耕作地貸してたがやせとかいってもそういうもんは耕作地の遊びをなくす程度にとどまり誰かの生業とする事によって得られる質と量には遠く及ばない。昔のポタアンの市場みたいなもんです。


このように見ていると放棄された耕作地がまだ数パーセントにとどまっているということは日本の農家は善戦しているように思えるのは私だけでしょうか。









さてそろそろ本気出しましょう。
農業というものは難儀なもので生産サイクルを詰めることで年に何回も収穫期が訪れるものではないのです。工場のように機械の回転数を上げればいいというものではありません。

このように考えると土地あたりの収穫限界は限られておりその土地のかずを掛けると生産数の限界が見えてくるのです。

つまるところ生産数だけを考えるならば現状の80だか90だか知りませんかそのくらいの稼働率の土地を引き上げて酷使すればいいのです。

効率的ではありませんよね。
不採算事業を拡大してどうするんですか。

これを産業の側面から見た、側面じゃなくて正面だろ自給率なんていうのは二の次。場合には弾数は限られているのだからうまいところに当てていこうと考えるほうが普通でありそのように考えると稼働率は下げても限られた土地でうまいものを作ったほうが効用が高いのです。

農家は日本国民を食わせるために日夜汗水たらして働いているわけではありません。
まずは自分たちが食っていけなければ話になりません。貧乏人しかいない日本国民に売るよりは高い金払ってくれる外国人に売ったほうがいいわけで生産高は直接自給率に計算されません。

・・・そのくらい知ってるよね・・・?農産物は農家の商品です。年貢ではありません。

どこかの軍おたが農家のライフプランを確立しようなんつう歩兵の理屈をのたまっていましたが上からふんぞり返っている年寄りどもにはそういう理屈は通用しないわけですね。

そもそも食料自給率というはなしもおかしなわけで北海道が開拓され江戸時代からかなり進歩したとはいえ1億三千万人を不足なく食わせていくだけの食料は生産できないような気がするんですけれどねぇ。近代の人口の爆発というものは決して医療が進歩して人が死にがたくなったからではなく、たくさんの人が食っていけるようになったからなのです。
そういう食の補給経路を確立していたのが水運とか貿易なわけで貿易で結ばれた世界が大体一つの単位で食料を共有できたというところに人口爆発の可能性があったわけです。

それにですね、農薬云々は悪い!!とか言う人いますが肥料は?と思うんです。
ホームセンターに売ってますよ、少しはお外に出ましょうね。
これは歴史の教科書レベルでも載っている話だと思うんですが確かドイツのなんたらいうめーかーから化学肥料輸入していましたよね。明治とか大正。

いまの日本の繁栄は他の国があったからで他の国に対してもそれはいえます。持ちつ持たれつなわけです。


さて本題です。食料自給率問題というものがいったい何故取りざたされているのかわかりません。
どうしても自給率上げたきゃ国民の数を減らすがいいでしょう。法化大学院みたいに。

問題となっているのは農業が産業として成り立たなくなっているということなのです。
それで困っているのは第一に農家、ということは念頭においとかなければなりません。
それで其の農家にそっぽ向かれたら日本市場も困るというところでしょう。


一と書いてあるんでこれから面白くなることでしょう。
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要は勢い。



最近見てないなぁ。面白いことは面白いんだけれど24話かぁ。
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商品戦力

さっきやってたココ・シャネルさんの話は燃え燃えだったんだけれども今やっている日本の女流作家ってなんあのあれ?

ゴシップ紙レベルで大して面白くないですね。この人によって誰かの人生が変わるとかそういう話ではなく何が何でもどこまで言ってもその個人の話に終始しているという。なんというか。個人主義ですね。ほんとどうでもいいです。これならば反流ドラマ見てたほうがよっぽどましです。


さてシャネルさんは映画になってるんでもしかしたら見に行くかもしれません。
これだけ熱いおばちゃんの話とは思っても見ませんでした。

といいことでリンク


解説でいいこと言っていたんですけれども、ファッションが大衆化するということを読んでいたということです。女性を解放すると言う理念はそもそも一部の限られた人だけで終わるのではなかったのでしょう。

よくよく考えてみれば作品ではなく商品と言う形で社会に自分のつくったものをばら撒き、社会を変革させようと言う明確な意図を持ったダンピングと言うものは彼女が始めて行ったのかもしれません。

それ以前のブランドと言えばどうなんだろう?ゼンハイザーとかAKG(1947年)は結構古い会社らしいのですけれどもそれよりさらに古い民間にいきわたる工業製品をきちんとしたブランドのもとに作成した会社と言うものはほかにはなかったのかもしれません。

ちょっと難しい話になるけれども社会と言うものは段階的に発展すると言う話がセオリーとなっていた時代がありました。
たとえば

時代が進んで社会が豊かになると三種の仁義とかいって冷蔵庫と洗濯機とテレビとか言うものをまずそろえると言う風潮がありその次に車とかデジカメ、DVD、薄型テレビというふうに発展していくものだと言う理屈があったようです。

ところでパソコンは?ケータイは?とはおもうんですけれどもデジタル製品に異様な嫌悪を示す日本での通俗的な話ですので触れてはいけませんよ。
ところで石川県議に携帯を持たせない条例案はいったいどうなったんでしょうかね。

結果。

末期ですね。
こんなことするぐらいなら自動車を全部廃止すればいいじゃないですか。死者が減りますよ。
古きよき発展から取り残された石川県。観光客が押し寄せますよ。多分。


まあそんな時代をつぶさに見ていくとそういう商品が登場してきたと言うよりもそういう商品を供給するメーカーが登場してきた歴史だともいえるのです。

つまるところ三種の仁義とかがはやる以前にはたいしたメーカーと言うものは存在していなかったわけです。たいていの場合がもと重厚長大路線とか何とかであったり。
人の手に渡る商品を作るメーカーが生まれ出る歴史とそれが普及する歴史と言うものはほぼイコールでした。トヨタとかの戦中と戦後の発展の仕方とかを比べてみるとわかりやすいものかもせんね。


ただそういう歴史と言うものは過去もの。
日立は家電メーカーだと思っている人たちがほとんどではないでしょうか。実は違います。
重厚長大路線と言う話を以前書きましたがそういうところがベースになっているのです。
このページを読むような人ならばIBMみたいなもんですといったほうがわかりやすいでしょうか。
昔ロケット打ち上げるCMとかありましたがやつらはしんくぱっどだけで儲けていたわけではありません。

現在ではそういう発展のリンクとは無関係にお金があれば真っ先に車とか買います。東南アジアとか今の貧乏人とかね。

その理屈はおかしい。といって理解に苦しむとか言う変な人た阿智がどこかの国には痛そうですが名に考えてたのかはわかりません。

僻地の山奥ではデジカメなんかよりも車を買って運び屋なんかをしてたほうが儲かるのです。
生活用品が仕事道具になるとかそういう話ですけれどもそれほどたいしたことを言いたいわけではありません。




さて前振りを終えたところで今日の御代です。

今日の読売に刺青の入った熱帯魚の話が載っていました。
なんと時代遅れなことでしょうわれらのくにには伝統のカラーひよこが・・・って見たことないんですけれど都市伝説なんじゃないんですかね?

違います。

金魚すくいという狭いたらいに大量に押し込められた色つきの小魚を大量の白い紙によって負いたて逃げ惑う姿に興奮す・・・あれの生産地は大牟田らしいですね。


さてまったく本当に話を戻しますが新聞を通して情報を見極めることなんて出来ませんよ。
それって電気のいろはも知らずに改造スレ読んでるようなもんでしょうに。なに言ってるのかまったくわかりません。
そういう理解の前提には使い古された教科書とか参考書とかで基礎を固める必要があるのです。

朗読図書の普及と言うのが本日のお話。
つまるところ言語だけによって学習が可能なわけでそういう文字というものは必ずしも読める人ばかりではありません。

そういう面がまず一つ。
もう一つが日本人にとってはあまりなじみのない話でしょうが言語と言うものは音となって伝わる声と気っても切り離せないものなのです。声優おたほどに詳しいわけではありませんが中の人なしにはまともな作品なんか出来るかわけがないと思っています。

この二つをつなげられないかなと思いました。


誰にとっても価値のある作品を音読したところでそれを楽しめることって言う人は多分頭のおかしな人たちです。現在でも朗読でぐぐれば芸術系の朗読サイトと言うものは結構出てきますがたとえば被弾のアリアを朗読してくれるようなサイトはまずないでしょう。(著作権的な意味ではなく)

娯楽としての声を使った業界というものは某ゲーム業界やアニメくらいしか知りません。昔はラジオドラマなんかがあったようですけれども最近はどうなんかな?

簡単に言ってしまえばライトのベルと言うものが浮世草子とか言う平易な読み物の系譜にあるのなら講談や寄席といった血筋はいったいどこに行ったのか?


言語とはひたすらに、練習だ!!と言う話をどこかで聞きました。
そういう連取というものは必ずしもあほみたいに机に向かった状態で生じるものなのではなく楽しみ、と言うか喜怒哀楽を伴っているはずのものつまりお話とともにあるはずのものではないかと思うわけです。

以前小説ページを企画したことがありますがそれの副産物としてそれを朗読と言うより話して聞かせるようにして歩おっどきゃストで配信しようかと思ったときがあったのですが、自分の文才のなさから断念したことがありました。わらわばわらへ。


最近はオーディオドラマって言うのか。けれどわたしが求めているのはもっと俗なライトのベル朗読程度のものでいいんです。大衆にばら撒くためのものですからね。

そういう意味合いでシャネルさんのように何かを変えたいのかという話になるのかといえばそうでもなく日本語の美しさとは何の関係もありません。

多だ単にそういう形式の市場があってもいいんじゃないかと思っただけです。NHK語とは違った二流声優でも使って乱造してみてはどうだろう。

ドラマCDとは違った新規市場が開拓できないだろうかと思いました。
それの価値を見出すのはきっとほかの誰かのお話。



さすがに今夏までは続かなかったか、残念。あっ、金欠だ!!
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リスク避け パス回し

「自分の考えを持ち、行動に責任を持つと言う意識が日本人には低い」


読売新聞2009年8月18日 「日本の決定力」より



まさにそのような状況ですね。私の周り。

文句はいくらでも出てきますが誰も何もやりません。しまいにはやらないことが正しいのだとか言う始末。
じゃあお前やれと投げ出せないのがつらいところ、本当に誰も何もやりませんから。口答えが多いだと?もうやりませんよ、善意の助言。まともなお隣さんがうらやましい。けれど昔に比べればまだ天国なんだよねぇ。この土地が自分にはあっていないのか?次は外資に行ってみようか、私には無理か。いちゃもんつけられて取り下げさせられたのが7割、理屈についてはまったく根拠のないよそでは論?あんたここは独自路線!!とか言ってたくせに。私が一般的にはこうですよねといえばここは独自路線!!どうしろと。あら捜しはおわりましたかぁ?昔のようなまっとうなところで働きたいなぁ。3割残ったことで上々と手を打っておこう。ただ依頼側を納得させられるかどうかは・・・ねぇ

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九月二十五日付 山月記の紹介について

いや、あのね。好きな作品を多くの人が権威を持つものだとして読む媒体でけなされるとこういう僻地で反撃したくもなるもんさ。

日本ではブログは日記、インターネットの情報は公衆トイレの落書き、wikiには間違った情報しか載っていないなどのまあいわゆる情弱の僻みのような偏見が蔓延しているのでこういうところで一応匿名の変な人が何かいっても誰にも取り合ってくれるわけは無いんだけれどもさ、書かなければならないと思ったわけさ。

情報と言うものには信頼度と言うものがありwikiには間違った記述があるのかもしれないけれども、もともとああいうもんは概要さえ知ることが出来ればいいのであり実際には引用された情報もとの原点によってきちんとした情報の裏を採るべきものです。書かれているものはすべて真実です。だからこの記述に従った私は無罪でございます見たいな感覚が日本にはありますが情報の提供者としてそれに保証を与えていると言うものが本とか広報の重要な機能の一つであり、それとはまた別の情報、たとえばwikiなどの情報を信じると言う場合、あるいはそれを根拠に誰かを説得する場合にはその保証というものは情報を使う本人に求められるのです。

その程度のことは大学で習うはずなんですけれどもね、wikiに書いてありましたじゃねえよ、本から引用すると言うことはそのデータは誰かによって裏付けられたある程度保証のある情報をもとに話をしていますと言う意味合いがあるのです。

そうやっていい加減なことを言わないように努力をしているのが学者さんとかのお仕事なわけで誰にも思いつかないような発想をするのは研究者とかの仕事です。その研究者さんたちの場合には裏づけが後から必要になってくるわけですけれどもいい加減なこと言うだけ言ってそのままと言うものは少なくともプロのやっていいことではない。

というわけで、あの記事は少なくとも作品自体を読んでないで書いてるだろあれ。

才能はあっても臆病で人と切磋琢磨することが無かったためにその才能を無駄にしてしまった李徴は本当の努力をしなかったことを悔いている(これは書いてある)と言うのに、才能の無いやつは努力しても無駄ですよって何ですか?ふざけてるの?

中島敦のほかの作品にはこういった本当に向き合っているのは何かというテーマで書かれている作品があります。行動を通してそれを描こうとしたのは名人伝ですし、わかりにくいですが文字禍には文字とそれが指し示すもののつながりからそれを描こうとしています。

小さな記事ですし片手間で書いたのかもしれませんがそれならそれで作品を貶めるようなもんを書くんじゃない。

無責任な発言はただの罵詈雑言であり責任ある発言はその人の意見です。

間接的に文部省の選択とか古い作品がずっと使われていること、つまり保守性に対する批判の槍玉に挙げたかっただけなのかも知れませんが高校生以下の無知をさらけ出す結果になりましたね。

軽い気持ちで言った、はともかく、これは批評の一つだなどという言い分は作品を読んでいないものには認められない言い分です。

少なくともこういう社会性が蔓延していること自体が問題なんじゃないでしょうかね。

この記事は辛口です、何か問題あったら消します。
けれど新聞にして多くの人に見せて、ことが起こってからそういう中傷の埋め合わせって難しいですよね。
そういうことです。


しかし、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)は感嘆しながらも漠然(ばくぜん)と次のように感じていた。成程(なるほど)、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処(どこ)か(非常に微妙な点に於(おい)て)欠けるところがあるのではないか、と。

何故(なぜ)こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依(よ)れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己(おれ)は努めて人との交(まじわり)を避けた。人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。実は、それが殆(ほとん)ど羞恥心(しゅうちしん)に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論(もちろん)、曾ての郷党(きょうとう)の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云(い)わない。しかし、それは臆病(おくびょう)な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨(せっさたくま)に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍(ご)することも潔(いさぎよ)しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを惧(おそ)れるが故(ゆえ)に、敢(あえ)て刻苦して磨(みが)こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することも出来なかった。己(おれ)は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによって益々(ますます)己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。

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何だ貴様はッ!!!

某法制審議会に乗り込んでこのように叫んだ場合4人は「俺か?俺はスペシャリストだッ!!!」と答え、残りの11人は「俺は国民の代弁者だ」と応えることでしょう。

この国のスペシャリストは死に絶えるんじゃなかろうかと思った。


現行の刑事関連の法制度というのは最低でも百年くらいの運用実績の上に成り立ってきたものであり、そうやすやすと否定できるものではないと思います。


ひとつの大きなシステムの運用上、一定の部分につき不具合あるいは処理不足が予測される場合にはそのシステムに対し一部の修正や特殊なスキルを付与することによりその解決をはかることが常識的な行いではないでしょうか。

バックミラーの見え方が悪いから車自体を廃車にしてしまうと言うのは極論でありバックミラーを取り替えるだけでいいでしょう。たとえばCPUやGPUと言った最先端技術の世界においてもたとえば命令セットやシェーダのようなその用途に限り効率的な処理を補助する部分を追加することにより問題を解決してきたと言うのはよくある話です。
なぜそのような小手先の業にこだわるやつらがいるのかと言うと、特定の処理のために全体を取り替えてしまうと言うことは非常にリスキーだからなのです。

刑法体系と言うシステムにかせられた役割と言うものは重大事件に対応することは大事ですが第一には治安の維持がその目的なのです。
世の中が平和であるようにあるためのシステムが犯人をどこまでも追い詰めて糾弾する血に餓えた復讐鬼を量産することの手助けをしてはならないと思います。
日弁連の提言には犯罪被害者の直接的なケアなどやるべきことはまだまだたくさんあると言うことが盛り込まれています。
そういうことをすっ飛ばしてわかりやすい時効廃止といううたい文句に飛びつく素人たちの代表者と言うものは社会ヒステリーの代表者にしか見えません。非情なことをいってしまえば高々数人の死人のためにこの国を治安維持法の亡霊どもが跳梁跋扈していた時代に戻すことは決して許されないことなのです。

確かに被害者に同情を示すことは美しいことでしょう。しかし、推理小説よろしく加害者をつるし上げることは決して美しいことではありません。そういう原始的なヒューマニズム的な刑法の時代などとうの昔に終わっており、現代の刑法は人を裁く力というものが本来凶器でありそれを必要悪的に利用するものだと言う方向に進んでいるのです。

たとえばあなたが60歳あたりに差し掛かり突然逮捕されあなたは40年前の今日天神で人を殺したと言う罪状を突きつけられたとします。どう反論しますか?20台の九州の人間で天神あたりにいったことのない人なんていうのはあまりいないと思います。やっていないことを証明することは悪魔の証明と言われるようにほぼ不可能です。刑事システムと言う凶器を規律する100パーセントの立証がなければ罪は問われないという疑わしきは罰せずという基本ルールも崩壊しかけていると言う現状ではほぼ起訴されれば有罪は確実です。
自分は清廉潔白だから罪に問われることはないと思うかも知れませんが、社会ヒステリーの中ではただそこにいたからと言う理由だけでスケープゴートになるのです。
白紙調書や冤罪と言う話を聞いたことはないでしょうか。身近に書かされそうになった人がいるので案外その辺に転がっている問題なのかもしれませんね。


民意に沿うということは大変結構ですが、それは民主国家としての理性をかなぐり捨ててまで実現すべきものだったのでしょうか。ある程度超えてはならない一線の中で民主的に国家を運営していくことが国民主権であり、人の意志の赴くまま何をやってもいいと言うのは人民民主主義という政治体制です。
またこういうヒステリー化の主導権が行使されることで先に時効問題について理性的な反対をしたような知識人層が虐殺されたような事件はすでにカンボジアで起こっています。

どうにも私には素人判断で今までスペシャリストが確立してきた実績を平気で投げ捨ててしまうような社会の流れが恐怖を喚起するものに見えて仕方がありません。
豊田のリコールの問題に関しても初期にはアメリカ製の部品が悪いと言い張っていましたよね。それがいきなりABSの設定ミスと言うことになり、たとえ無償で対処するにしても同じような問題隠しがまた行われるかもしれないと言う不振を煽るには十二分の問題のなのかもしれません。あれは平時であっても致命的な問題であったはずです。リスクマネジメント能力のなさが露呈したこと自体は間違った指摘ではなかったでしょう。
また外国人選挙権の話にしてもなぜか憲法15条がらみの判例しか引用されていませんが、基本的人権の部類に属する判例に日本国民固有の権利を永住外国人に譲ることは出来ないとする判例も多くあります。あれは単に15条だけの問題ではないと私は思います。そもそも世界の潮流と言うのもおかしな話で、移民流民を受け入れることで社会がおかしくなると言うことは多くのところでおこったことですけれどもね。国家レベルではなく私設団体の行動がなぜか世界の潮流に祭り上げられるこの不思議。



今まで誰もやらなかったことと言うのはたいていの場合禁忌とするに値するデメリットゆえに禁忌とされているものです。そういう禁忌を知るスペシャリストの言葉を無視して、新聞やテレビなんかを見た程度で知った風にものを語って、その実利用されてるだけの人のほうが危険と言えば危険ですが現に票という権力を持っているのはそういう人たちなのです。
そういう素人さんたちは時効問題や外国人参政権の問題やネット規制の理屈が中国当局と同じこといっていることがどれだけ危険で自分の首を絞めているのかご理解いただきたいと、そう思いました。

これは体感治安と言う問題なのですが、今の日本ほど平和な国というのはありませんよ。恐怖感を煽るぼんくらどもがいるために世の中が物騒に思えるだけです。
盗んだバイクで走り出すような若者が多かった昔に比べ今は安穏としたものです。
景気が悪いのはまお~さまのせいではなく、単に日本人の想像力が不足しているからだと思いますし。

何を言いたいのかというと、今の世の中そんなに悪いもんではないと言うことです。
さまざまな問題も、その問題に見合った規模の適切な対処の積み重ねこそが重要なのだと思います。
そういう地道な努力を汗だくになりながら繰り返しているスペシャリストさんたちには素人権力者に負けないで欲しいと思います。児島惟謙のような人が今の世に出てきても今の新聞やメディアは全力で叩くかも知れませんがそれでも負けずにいて欲しいと思います。
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ttp://www.yomiuri.co.jp/net/security/s-news/20090202nt0c.htm

ttp://www.yomiuri.co.jp/net/news/20100317-OYT8T00382.htm


都の青少年育成条例も大概だがこちらもひどい決定が出ましたね。

民事でこれならばまあ程度が過ぎれば仕方ないということもありますが刑法での適用が認められている時点で少々やばいですね。このページもきっと摘発を受けるに違いありません。

2002年10~11月、自分のHPに

という表現にあるように9年前のホームページ上の情報事情というのは最近のモノとは全く違います。

そのカルト集団という表現が例えばある程度の職務経験から精神論ばかりで効率的ではないなどの感想的発言である場合、このような発言が犯罪として取り沙汰される場合にはある程度の根拠をもとに言っているのかという発言の元になっている事実、要するに第一審判決でおそらくまともに判断された事情のもとで無罪となっているにも関わらず、2010年あたりのネットが流行りだした状況での個人の発言について判断がなされているという意味でもはや判断基準がワケのわからんものに成っているのです。

例えばこのページでも批判的な表現をよく多用するわけですが、オペアンプの音が悪いだとか、薬中や生まれてきてごめんなさいとか言っているふざけた根暗文学は子供に読ませる本の主役を張るべきではないという発言に対しこのぼんくらが売上減少を誘発した!風評被害だ!死ねキチガイめ!とか言いながら告訴するようになると言葉狩りが始まります。

刑法の名誉毀損には例えばそれが公益を図る目的、例えば政治的意図・製品レビュー的なメリットが有る場合には悪いことを言っても犯罪に見えてもそれは犯罪とは成り得ない(難しい言葉で言うと違法性阻却事由というのに当てはまるらしい)ということになるのですが、これが例えば感想的なものだったらどうか?
少し前に涼宮ハルヒの消失は映画としてはそんなに面白くないというある種の批判を掲載しましたが、これが犯罪に当たるから逮捕!という事になるとどうなるのか。

わたしは一応のところ一回は作品を見た上で以前の批判的な記事を書いたわけですが、それでは不十分だ!最低でも100回は見てるべきものなのに一回しか見てないだと!、その上プロの映画評論家並の見識を持たぬ貴様が批判的な発言など偉大なる長門様に浴びせていいわけないだろうが!という発言とほぼイコールの事を行っているのが今回の事件の判断になります。

一般人の発言にマスコミ並の裏付け調査が必要という時点で事実上不可能な発言の基礎をネット上の発言に求めているわけです。よくわたしが言うネット文化への嫌悪が出ているとしか言えないようななんとも危険な香りただよう事件になっています。

まあ詳しい話はわからんでのすが報道記事だけを見てみるときちんとした取材活動と保証付けられた新聞社などのページとこのような個人のページとを同列に語っているという時点でもはや社会についていけてない人間の発言にしか思えてならんのです。
今回の事件が既成事実になってしまえば一般人は挨拶記事と提灯記事でも書いてろ!ということになりかねないわけですが、一般人でもある程度の不満の声を上げられるようになった状況を怖いと考える状況思考は共産圏の支配者と同じでしょう。このような批評にも耐え、素晴らしい作品を作り続けるメーカーも有ります。ただそういう批判が商業的にメリットになるから許されるのだという論調にも同調できません。メリットにならないから犯罪というようなグレーゾーンのない社会を求めていると批判されても仕方がない事件です。パブリックフォーラム論のように人前で自由に発言ができる侵すべからざる公共空間というものが廃れて久しい現在、口をつぐんで下を向いて歩くことが当たり前の社会になりそうで不安です。


話は変わりますが、裁判には文化というものが大きく関わってきます。優れた裁判官というのは、今回で言えば一審の地裁の裁判官さんのように非常にシステマティックに物事を判断できてなおかつその判断が社会的に見てどのような位置づけにあるのかを理解できる人であって決して人情に熱い人なでではないのです。(裁判官が非人間的と言うわけではない、むしろこの事件に関しては一般人とマスコミの違いを前提として判断を下している)
例えば古い話なんですがちょっと詳しい話を失念しましたが下調べ不十分ということでなにか言われそうですが、福岡地裁か高裁で冤罪事件か裏金事件のどっちかをでっち上げた警察の人間をの弁護するのに「俺は組織(警察)を守るために事件をでっち上げた!裁くなら裁くがいい!俺ひとりが犠牲になって組織が救われるのならば悔いはない!!!」というサラリーマンの鏡のような素晴らしい弁護をしたのに

「有罪」

という空気を読まない素晴らしい判断を下した裁判官がいました。
弁護側にして見ればそこは涙を流して情状か無罪にするところだろ!空気よめやコラ!という話ですが、知ったこっちゃありません、どっちにしろ裁判の外に被害者がいるわけですしやってはならないことをやってはならないレベルでやってしまったわけですから、それをお涙頂戴論で無罪にしていったらこの世の秩序など無いに等しい状況になります。

刑法の基準というのはあくまで一般人を基準とすべきものであるのに、ことさらキツイ専門職基準を採用している時点で危ない危ない、そのうち車を運転するにもF1レーサ並の腕を要求される時代がくるのかもしれません。
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NHKでやっている正義論の講義ノート

国民的美少女よりも、巷で人気の妹キャラよりも、俺は黒髪お姉さんを選ぶぜ!

途中から見てるんで良く解らんが前提が良く解らん。

これは例えば社会全体の総利益を最大化するための議論?
これを前提とした場合でもオープンな機会というのは多用な価値基準を育てるという意味で、前時代的な万能属性一本の時代の価値観(簡単に行ってしまえば美しいという概念が優劣でしか語られなかった)にとって代わってしまっている。

これに対置しているような感じでみんなが食っていくための社会運営(福祉とかでも言っておけばいい)という価値観に基づいているのだろうか?

あるいは、社会を安定的に保つために不満をなくすための大体全員の納得を達成するための議論?


こういったゴールが多分最初に語られたんでしょうけれどたぶん、一番最後の不満1納得9をの社会を万能的な価値一つ(お金とか)が前提。




以上のステージで。

富の再分配のおはなし

みんな一緒のスタート位置に立たせても、才能なんかによって恵まれた人たちは他よりも結果を出す。
だからこそ彼らから、所得の再分配として税金とって、結果を出せないひと、スタートに立てないひとたちの補助にしようという話。

論点1
結果を出した人から税金とか取る大義名分はどうするのか?
努力して結果出して金稼いだのをどうやってひっペガスのか?
能力主義・貢献したし!
ろ・それは自分の功績と主張できるわけではない、好機を得た、生まれ落ちた環境や天与のもののおかげだろう

道徳的対価 と 正当な期待に対する資格の違い


まだ遥かに紙とペンの方が速いな

能力主義者を評価する社会に生きているのだから、貢献とは社会が要求する資質を持っているという話ですよね。

紛争解決という仕事では、この世界では弁護士が強い(高い報酬を得る)ように見えるが、暴力が強い世界もある

こういった社会(評価者)の違いにかかわらず払われるのが道徳的対価である。



●ちょっと休憩
頭悪いことを言ってしまえばお前ら社会(人の集まり)の中で生きるのならそれよこせと言ってお金持っていくのが税金の元の形であり、その脅迫をするのが多数者であるということではないの?
能力者が働かなくなるというのはあくまでも脅迫をやりすぎた結果であり、これに副次的な総量の増加という価値観をくっつけると、意欲を削がないように税率を変えようというのではないか?


社会とその代行者である権力と当地対象としての社会とのマッピングができてないのか?




続き
アファーマティブアクション

大学の入学枠に人種枠を設けるべきか?(これがアファーマティブ)それともすべて点数で決定すべきか?(日本だと面接試験とか言うのが入るよね、AO入試マジ死ね、リア充至上主義反対!人間力?マジ死ね!)

レガシーアドミッション(縁故採用)


前提 人種のみではない

自分ではどうしようも出来ない属性は、結果にも影響を与えるが、別個独立の判断基準。


三論点

補正・不幸な家庭の是正

補正・歴史的背景への償い(償わされる現代の人はどうすればいいの?集合的責任などはあるの?)

アクティブ・多様性―①教育的経験のため
          ②社会的目的のため

(リソースは限られるという前提でね♥)

バッキ訴訟

ハーバード曰く 各種の属性持ちは強力な多様性で力を持つ


持てる者の言い分 なぜ俺がしわ寄せを受けなければならん!


お前が持っているのは恣意的に行使可能な権力ではない(入学というか勝手に入っていくようなものは持っていない)

権利というのはそれを授与するものがいる(ここでは大学)


損で
道徳的対価 と 正当な期待に対する資格の違い
の話に戻る



続き

ロースクールの社会的な役割がある

じゃあ私立の機関は好きな目的を設置する事はできるのか?

(こいつもまたじんかんの住人の一つではないか?補助金とかもらってるんだろう?税金から)

社会的使命の原理的な違いは?

例えば
ロースクールに出願するというのは正当な期待に対する資格の違いの評価に服することを承諾しているようなものでは無いのか?

利用と被利用の関係
あんた合格、あんたが持っている資格は今の社会に必要とされていますからね。

道徳的対価ではない

でもロールズは道徳対価だけで判断することはダメって言ってるむしろ切り離すべきという



なんでだろう?

アリストテレスは正義とこの二つの価値観でその先を行く。

与えるべきものを与えるのが特(正義)

分配されるものの属性
与えるものが物の場合

ガンダムを与えるべきは?
一番うまくガンダムを扱えるもの


金持ちに与えるべき?イケメンに与えるべき?



とアリストテレスは言い切っている。

どうして最高の操手にガンダムを与えるべきか?

最高の戦果を挙げられるから?違う

うまく扱える人の手に渡ることが、ガンダムの目的だからだ。
その副次的な効果として戦果が出てくる。

アリストテレスは功利主義者ではない

目的を見ることで正義の分配がみえてくる

テロスを考えろということだ

これに叶うのが正義にかなった分配差別が成される


あーあれか、毒ガエルの毒は毒殺に使えと
目的論的
これを変えたのが科学(毒を薬にてんじた、毒性学を参照)

アファーマティブアクション
大学の目的とは何か?から考えるわけですね。
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一迅社の編集募集要件、年五十冊か・・・

年初に読み始めた判例六法がまだ読み終わらない私には無理っぽいな・・・


ところで関西で広域連合の議決があったそうです。

広域連合というとなんかとても厨臭いネーミングですが、これはれっきとした地方自治法上の制度であります。

端的にいってしまえば地方自治体が連衡合従して大きな事務処理単位を構築することです。

この広域連合のどこがすごいのかというと、国の事務の受け皿になれるところにあります。(地方自治法291条の2①)



このほか、地方自治法上の議決機関や執行機関が別途作られるなど(294条の4①以下)なんかとてもすごい変革が起こりそうな感じです。

あくまで私は専門家ではないただの法学部卒業生なので下手なことは言えませんが、これは単なる規模の変化なのであって、これによって適正手続などの法律の根本的なところが変わるわけではありません。

確かに大きいことはいいことだという前提にたてば、小さい自治体なんかも良質なサービスを受けられる可能性が向こうからやってくるという意味ではいいかもしれませんが、住民にとってはあくまでサービス主体が変わるだけということは忘れてはならないような気がします。

とくに以前の都の検閲まがいの条例さわぎにも代表されるように、国(悪者)から地方(善人)に権限を移せばすべてうまくいくというわけではありません。
むしろ、適正手続を確保する行政手続法のような法律の枷から外れる部分もありますので、単純なサービス主体の変化というわけではなく、国に比肩するような大きな力のある勢力が、その立ち上げの時に一時的に野放し状態になるのではないかと心配です。
この都の事件自体は議会のものであり行政手続法自体は自治体の議会に適用はありませんが、国に比肩するレベルの行政主体の登場に対する安全装置というものは現行法上どうなっているのだろう?

今のはメラゾーマではない・・・メラだ・・・ということがありうるしね。



関西の学生さんたちが羨ましい。

学生時代に歴史が動くかもしれないようなテストケースというものが目の前で起きるということはそうはないと思います。

もし、いま何にも興味がもてないという中二病に羅漢している方がおられましたら、この広域自連合の立ち上げを追ってみてはいかがでしょうか?
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